6.14「国の答弁書への反論」
国の答弁書への反論1
「テーマAは与党マニフェストを支持し、テーマBは野党を支持したかったが、一票に絞れ
なかったので白紙投票をするほかなかった、その苦しみを償え、またそうした不条理を補完す
るための国民投票や参政員制度制定は国民の権利である」と、国に対して27/4/22に求償訴訟
をしました。それに対して5月31日に国の指定代理人からの答弁書が裁判所に提出されました
その「答弁書」に対する反論を以下の「準備書面1」として地裁の口頭弁論で提出しました
判決は7月15日郵送との事です。重いテーマです、地裁では役所に気兼ねして、原告敗訴に
するでしょう。直ちに上訴します。ただ、上訴、上告、異議ほか多様な対応がありますから、
出来ればこうした事にアドバイス頂ける方がおられましたらよろしくお願い致します
訴状
国の「答弁書」
国の「答弁書」に対する反論「準備書類1」6月7日
大阪地方裁判所弟23民事部C1係 御中
原告
546-0043 大阪市・・・・・・・・・
06-・・・・・・・
峯 弘
被告国は以下のように主張した「本件で、原告は、「国民全員の利害に関わる重要な政策案件」に関する国民意思を直接問うための「国民投票制度もしくは参政員制度(以下「本件各制度」という)が、憲法で保証された「選挙権」の行使の機会を確保するために必要不可欠であるにも関わらず、これを制定するための立法措置を執らなかったこと(以下「本件立法不作為」という)が違憲であるとし、被告に対し、慰謝料1万円の支払いを求める(請求の趣旨第1項)とともに、2、本件立法不作為を認めた上、本件各制度のような方法により「有権者の意思を反映させる方法」を実施すべき「制度改正」を行うことを求める。(請求の趣旨第2項。)」
訴訟の趣旨は全く誤解されている。即ち国は以下のように主張した「国民全員の利害に関わる重要な政策案件」に関する国民意思を直接問うための「国民投票制度もしくは参政員制度」が、憲法で保証された「選挙権」の行使の機会を確保するために必要不可欠であるにも関わらず、これを制定するための立法措置を執らなかったことが違憲であると原告は言っている」と。
簡単に言えば国は「投票の為に国民投票、参政員制度などがないのは違憲と原告は言っている」と言う。しかし上の主張は意味が通つていない。なぜなら「選挙の投票」と「国民投票・参政員制度」は水と油の如く全く別のことだからである。
被告国が上のセンテンスの柱を「選挙権の行使の機会」の為にとしたのは「参政権イコール選挙ー投票」という理解しかない為かも知れない。しかし世界には参政権には「選挙」と「国民投票制度」がある。
原告の主張は以下である。選挙では各政党毎に多くの政策が提示される。分り易く言えば「カゴに多種の果物を盛って売る」果物屋が軒を並べているのと同じである。原告の場合、外交、安全保障政策、税制の抜本的改革、道州制の導入、高速道路無料化反対などについては自民党を支持した。しかし特別会計、独立行政法人、公益法人をゼロベースで見直す、企業団体献金の禁止、衆院定数の8 0名削減については民主党を支持したいと考えた。
分り易く言えば「このカゴにはレモンと若い無花果が入っているので買えない。あちらのカゴには青いリンゴと柚が入っているので買えない、どちらのカゴも自分が欲しくないものがあるので買えない」に似ている。原告の場合、これでは1党・一票に絞り込むことができない、なぜならば、もしも自民党に投票したとすれば、民主党のマニフェスト全てに対して反対したこととされて「逆用」されてしまう。(民主党に投票したとしてもおなじ)これでは主権の1形態である「選挙権」を行使できない(白紙投票は不行使と同じ)。国は、有権者が、「選挙・投票により議員を選ぶ」制度と、「政策毎に政党を選べる」参政員制度も用意して、有権者が「投票で議員を選ぶか、テーマ毎に政党を選べる参政員制度にするか、どちらによつて主権を表現しようか」と選択できるように「2制度を用意すべきだ」とする主張である。
多くの世論調査では、自民党も民主党も支持できず「中間」「無党派」が多くの場合多数派である。選挙ー投票制度においては、政党それぞれが複数の政策メニューを提示しているので、有権者はあれこれ比較し、どれかの政党に決定しなければならない。この為全ての有権者は原告と同様「あちらを立てれば、こちらが立たず、こちらを立てれば、あちらが立たず」の迷路に嵌ってしまうことになる。そして重要メニューであっても幾つかのメニューは「無視」「放棄」して1政党に絞って投票せざるを得ないのである。ここにおいて主権は毀損したと言える。
尚、一般国民投票制度は重大なテーマについて国民の意思を問う制度であり、世界に実現していることは衆知の事で、間接政治の欠陥を補完する意味でも、無い方が問題というほどのものである。
国は以下のように主張した「当事者間の具体的な権利又法律関係の存否に関する紛争に限られるのであって、このような具体的紛争を離れて、抽象的に法令等の違憲に関する判断を裁判所に求めることは裁判所が行使する司法権の性質上許されず、さらに進んで、国家機関である国会に対し、特定の内容の法律を立法すべき義務を課すことを裁判所に求めることは三権分立の観点から許されない。」
原告の場合、外交、安全保障政策、税制の抜本的改革、道州制の導入、高速道路無料化反対などについては自民党を支持した。しかし特別会計、独立行政法人、公益法人をゼロベースで見直す、企業団体献金の禁止、衆院定数の8 0名削減については民主党を支持したいと考えた事は主権の発露であり、この判断を批判したり「抽象的」と断ずることは表現の自由や国民主権を軽視するものと言わざるを得ない。重ねて主張する。本件訴訟はまさに「具体的な権利又法律関係の存否に関する」ものである
国は以下のように主張した「あるいは国家機関である国会に対し、特定の内容の法律を立法してその「制度改正」を行うべき義務を課すことを裁判所に求めるものにほかならない。特定の内容の法律を立法すべき義務を課すことを裁判所に求めるものであれば三権分立の観点から許されない」
「特定の内容の法律を立法すべき義務を課すことを裁判所に求めるもの」一票格差違憲訴訟でも司法の価値観が示されている。三権分立であるからこそ司法は「何が国家国民の利益になるか」という判断が可能でなければ、司法は無意味である。上のセンテンスは、国の立場でありながら、司法の裁定の代弁もしくは示唆をしているように解釈できる。これは司法を萎縮させ三権分立の精神をないがしろにするものである
国は以下のように主張した「上記「違法」とは、公権力の行使に当たる公務員が、個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背することを言う。国会議員の立法行為が、国賠法1条1項の適用上違法の評価を受けるのは、立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保証されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や、国民に憲法上保証されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、それが明白であるにも関わらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合、国賠法1条1項の適用上、違法の評価を受ける」
まさに政治メニューABは与党を支持し、政治メニューCDは野党を支持したい原告は長年白紙投票をせざるを得なかった。間接政治の構造的な欠陥は明白であり、
これを補完するために多くの国で国民投票や住民投票が実施されてきた。もし国が「本件各制度などなくとも、現行の選挙制度で、政治意思を十分表現できる」と主張するなら、原告の事例に則して、どのような手段があるかという挙証責任がある。
さらに言えば、仮に有権者が何割かの政治メニューについて意思表現を放棄し、特定政党に投票したとして、期待を持って支持した政治メニューが政権党の都合で、反対の施策に豹変する場合、主権は明らかに侵害されたと言うべきであろう
。
例えば民主党は2年前には郵貯の限度額を千万円から5百万円に下げるとしていた。それが何と千万円を2千万円に上げた。投票した途端に有権者の意思は「議員に自由委任」の下、一人歩きする。
被告国は上のような例においても現行の一括一任、自由委任の制度が「主権在民」として十分に機能し実現しているとするのだろうか。
(司法の意思として一票格差が違憲だとする判決も出ている)。
憲法前文には「その福利は国民がこれを享受する。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とある。
我が国は多くの面で先進諸国の最下位に落ち、絶望的な債務そして二層化社会となった。
選挙では、笑顔と握手そして「道州制」だとか「技術立国」など抽象的な主張が殆ど、しかし国会では罵詈雑言が飛び交い、重要法案も殆ど審議なしで通過する。野党の対抗手段は不信任案ばかりだ。
政治の信頼が地に落ちたことは明らかで国会のシステムや選挙制度が抜本的に修正が必要だという認識が必要だ。
片山行政刷新会議委員(前鳥取県知事)は「選挙はオミクジを引く作業に等しい、知名度や肩書き、経歴ばかりが先行し政治理念や品格、行動力などは殆ど未知数、演説や討論を聞いても本人の言葉をどこまで信じていいのか分らない、このままでは有権者の不信感はいつまでたっても払拭できず政党離れを加速させるのは
必至だ」と。
09/11/30の日経では「マニフェストに限界があるとすれば、補う手だては住民投票の活用だ。時々のテーマで住民の意思を確認することで自治の意識も高まる」。重要な議案について市民の意思を問うことは、選挙法や議会制度には反しても、憲法の一義的な精神、民主主義に反することにはならない。
長妻昭厚生労働相は、この二月、重要な政策課題に世論調査を活用する検討に入った。まず、一般から公募したモニターのうち約100人に直接説明して意見を聞く。次に、有識者約千人を対象にしたアンケートで、専門的な問題点を洗い出す。さらに、国民にわかりやすい形でA案とB案を示し、どちらが良いか大規模なアンケートで選んでもらうというもの。
選挙制度の免れない欠陥の一つは、選挙民は選挙で掲げていた公約全てに賛成して投票したと理解されてしまう事だ。又マニフェスト、公約はあるが「自由委任」の為、責任は問えない。先進諸国で国民投票や住民投票が行われているのは民主主義の原理として正しいからだ。
6月7日の国の「答弁書」では、「本件各制度が、憲法上保障されている国民の権利行使の機会を確保するために必要不可欠であるということはできない」と明確な結論を出している。
本件各制度は「国民の主権」の1形態であって、憲法の精神に関係し、これ以上の大きなテーマはない。国民に主権者意識が育たないのは、自分たちが参加してルールを作るという機会を与えないために「明日のわが国の姿を決めるのは我々だ」という主体的意識を持てないところにある。
外国に在留している有権者が国政選挙に投票する在外投票制度や、裁判員制度でも極く初期には「必要不可欠ではない」とする主張がなされた。しかし否定された。
2005年11月欧州5カ国へ自・民・公・社・共の8名の議員が参加して国民投票制度視察調査団が派遣され膨大な報告書が作られ「必要不可欠」とも読める記述が随所に見られ、次のような個所もある。「事実につきまして国民投票制度を設けるか設けないかにつきましては、私はそれは解散によって民意を問うべきものではないかというふうに思います。」即ち「必要不可欠なのか、否か」は民意が問われるほどの大きなテーマであって
想定される対象は殆ど全国民であり、在外投票制度などよりも遥かにに有意義だ。このまま「投票のみ」という立法不作為が継続すれば、主権在民は単なるシンボルに過ぎず、原告の事由のように国民の政治参加は制限され、国民の政治不信、政治離れは改善できず、國際社会に名誉ある地位を占める等は夢でしかない。
片山行政刷新会議委員の言うように選挙がオミクジを買うようなものであれば、国民は政治に無関心にならざるを得ず、国政は投票した特定階層の為のものと化す。
国は屡立法不作為をする。例えばアスベスト使用制限法を不作為し、多くの犠牲者を生んだ例、ハンセン氏病への治療薬が出来、先進国が隔離政策を止めたにも関わらず、何と40年近く「らい予防法」を廃止せず、隔離を続け多くの人権を損なった例(廃止したのは菅元厚相)、水俣病、薬害エイズ、無年金問題、B型肝炎、一票格差問題ほかいくらもある。全て行政および立法府の不作為と怠慢による。
国の言う「憲法の一義的な文言に違反しているにも関わらず国会があえて当該立法を行うというような、容易に想像し難い場合に限られる」とのセンテンスを援用すれば、この訴訟においては「容易に想像し得る選挙制度の欠陥を補完する為の国民投票や参政員制度を実現しない立法不作意」を申し立てているものである。
政治への参加手段が一括一任の「選挙制度」のみであることが国民の政治意思の表現手段として決定的に粗雑であり、「白紙投票せざるを得ない」もしくは「オミクジを買うようなもの」「もはや政治からは何も期待していない」と批判され「主権の侵害さえ在り得る」ことを認め、より精細な「参加政治の手法」を模索し、実施すべき義務がある。高教育そしてネットの時代、これを怠っている事は職務上の「不作為」に当たり、憲法の一義的精神に違背するのは明らかだ
国は以下のように主張した「本件各制度(国民投票制・参政員制度)は憲法上明記されたものではなく、これが許容されるかどうかは上記のとおり議論があるところであるから、仮に、憲法が採用する代表民主制の原理に抵触することがないとしても、その採用は国会の立法政策に委ねられているものというべきである。」
「国会の立法政策に委ねられている」まさに当然である。しかし各地で行われている住民投票において、市や町の議員はしばしば以下のように発言する「住民が決めるなら議会・議員は不要だ。議会の権威はどうなるのだ」。これで分るように、国民の政治参加は「議会議決の価値を軽くする」と議員サイドは理解する。
分り易く言えば、「パイの席に割込んで来られる」と感じるのだ。現在の選挙制度、議会制度を維持することは全ての議員の利益になる。この為、国は「投票こそが主権行使の唯一の方法だ」と啓蒙する。
国民は「投票のみが主権の行使」と信じこまされていくのだ。
本件各制度の施行が「国会の立法政策に委ねられている」のは事実である故に、立法府の構成員である議員諸侯が、議員自らの票決権を幾分か損なう事をあえて推進するとは思えない。折角、国民投票視察団が欧州で得た情報も宝の持腐れになろう。
しかし、もしも本件訴訟で「本件各制度は必要不可欠」と裁定されることになれば、「一票格差違憲判決」同様、国会、各政党も「前向きに検討中」では済まなくなる。
参議院憲法調査会での議論の一つには以下がある。「スイスの場合の集団安全保障のための組織又は超国家的共同体への加盟などの義務的に行う場合の例、それからフランスの、八ページにあります公権力の組織に関する法案、経済・社会政策に関する法案、重要な条約の批准を国民投票にかけるという規定があるわけでございますけれども、そういった重要な事項につきまして解散によって民意を問うということを日本の民主主義の慣行として運用をしていくということを検討すべきではないかというのが私の国民投票制度に対する意見でございます」しかし重要な事項が複数提示され選挙する場合には原告のような理由で白紙投票せざるを得ない。やはり事項毎に可否選択できる制度が重要である。
そもそも三権分立の第一義的な命題は、立法・司法・行政は立場が異なっても、「国を良くする」ことにある。司法は三権分立の立場から、現行立法制度の瑕疵を理解し、国家国民の利益を勘考し、この提訴について前向きの判断を下すはずと信じて提訴したものである。
裁判員制度は刑法不知の一般国民を刑事事件の判決に参加させる。一昔前なら到底理解を得られない制度である。しかし司法は国民に一定の権力を持たせる歴史的な決断をした。まさに賞賛に値する。
国を良くするには、国民の政治への関心を高め、参加の間口を広げる事が重要だ。司法がこのことを理解し、この訴訟に関して肯定的判断をするなら、まさに歴史的であり、立法府や国民さらには学界に対して大きな影響をもたらすであろうことは明らかである。
これ以外に著書「参政員制度」より抽出した文献などを追加しています。
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